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技術的じゃないblogのような何か

固定リンクは無慈悲に笑う。――私は、国語が嫌いだった。

私の小学生時代、国語が苦手だった。特に、"作者の心情を述べよ"といった、行間なり背景を推測させるような出題が苦手、というより嫌いだった。足りない頭で必死に考えたつもりでも、テストの答え合わせでは、無慈悲に思考が否定される。

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こんな事を思い出したのは、固定リンクが限界を迎えているという主張が展開された、昨秋の頃。

私も主張には概ね賛成。自分でも、固定リンクは「必要無いかもね」と思うシーンが増えてきたからだ。

 

理由は単純。SNSを通したコミュニケーションに、URLは必要が無いから。ただただ、それだけ。

重要なのは、コンテンツを誰と共有するかや、LIKEやfavボタンを押すという行為のみ。主体となるのは、オンラインという名前の空間でもあり場であり、そこに集う人達なのだ。URLはネタというか、現実世界でいうところの住所という程度の意味しかない。

だから、固定リンクは要らないよね、そう思っていた時期が、私にもあった。

しかし、実際には違った。固定リンクは必要だ。

こう思い直したのは、私がとある記事を読んだ時。初見では、その筆者の事が嫌いになった。論理的には正しいなと思いつつ、その文面から嫌悪感なり差別意識を感じたからだ。なんて酷い主張をする筆者であろうと。

普段なら、そのままブラウザをソッと閉じるところ、たまたま気になり、他の記事にも目を通す。するとどうであろう。件の記事は、その筆者の主張に対するアンチテーゼの文脈を持っていたのだった。

私は、前後の文脈を知らず、ただ、単純に与えられたURLの記事に対してのみ噛みついてしまっていた。記事を咀嚼もせず、目の前に出された餌に対して、私は、パブロフの犬よろしく、条件反射しかしていなかったのである。

「これは、やられた!」と私は思った。気がつかないうちに、私自身ネットで、刹那的な時間を過ごしていたのだと気がつかされたのだ。理性を押し殺し、感情だけで情報を処理するだけならば、確かにURLは不要だろう。だが、そうではない。

当時の私は、視野が狭かった、考えが浅かったのだ。今ならハッキリ自覚できる。だから、私は国語も嫌いだったのだろう。

いい年をして、ようやく気がついたというか、正直恥ずかしい。

いや、まだ気づく事が出来て、良かったと言えるのだろうか。