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技術的じゃないblogのような何か

昨日書き損ねた理由。

毎日書くつもりで始めたblogだが、昨日は一日欠損してしまった。なぜかというと、帰宅時間が24時を廻ってしまったから。夜遅くまで仕事をしていたわけではなく、某所に大人の社会見学的な意味でお邪魔させていただいていたため。つい、日がまわってしまい、明日に備えなくてはと寝てしまったのが原因。

 

これまでの自分なら、そこで更新を放棄したかもしれない。

 

私は、こうみえて、無駄に完璧主義者的な所がある。普段はいい加減なのだが、拘りのある所には妥協しない。たとえば、部屋の掃除は、なかなかおっくうに感じるものの、いざ掃除をしはじめると、すわ大掃除かという具合に徹底的に掃除をし、半日くらいかるく消費してしまうのだ。普段から少しずつやればいいのに、と我ながら呆れるくらい。

そのため、今回も、1日更新が欠けてしまったのはネガティブな切っ掛けになり得るのだ。連続更新記録が途絶えた私の心境は「まぁ更新続かないよなー、もういいや」と、怠けてしまうのである。

だけど、今回ブログを始めたのは何だったのか。動機を忘れそうになった自分がいた。そういう日常の思考パターンなり、生活を改め、まるでエンドレスエイトのような日々を脱却する事が目的ではなかったのか。

だから、更新が1日ぐらい無くてもなんだと。それでも続ける事に意義がある。ゆえに、日常を脱却すべく、敢えて書き損ねた理由をネットに晒し、自らの戒めとする。

という風に、ネガティブな事も、ポジティブに考えを変えて生きていこうと思う、今日この頃であります。

キーボードを買い直した話。

ある日、目を覚ますとキーボードが濡れていた。

Aを中心とした上下左右のボタンが動かなくなってしまったのだ。

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奥が古いキーボードで、手前が新しいほう。

 

いやー、やってしまいました。

キーボードを濡らしてしまったのです。

ただ濡らしたのだったらマシなのですが、

恥ずかしい事に、たぶん、酒に酔ってしまい、

自分でも気がつかないうちに、キーボードにお酒をぶちまけた模様。。

次の日、朝起きると、目の前には入力を受け付けなくなったキーボード。

何気に持ち上げてみると、滴る酒らしき液体。

 

昨年末には思わぬ出費でした。

飲酒しながらのネットは、危険ですね。。

【読んだ本】ファンタジスタドール イヴ

気持ち悪い。しかし、面白い。
それが、この作品に対する初見の印象だった。


ファンタジスタドール イヴとは、同名アニメ作品の登場前夜を描いた作品である。野崎まど氏によって展開される本作は、作品と言うよりは、むしろ、ファンタジスタドールの世界を考証するための資料のような位置づけかもしれない。ハヤカワ文庫たる本作品は、やはりSFでもあった。

そもそも、ファンタジスタドールとは、中学2年生の女の子、鵜野うずめがヒロイン。偶然手に入れた携帯型デバイスとカードを使う事で、ドールと呼ばれる人形(友達)を呼び出すことが出来る。

アニメで描かれたのは、うずめと彼女の友達との、ほのぼのとした日常や、ドール達との葛藤であった。いわゆる深夜アニメという枠の割には、内容は王道的。わかりやすいストーリーは、多くの人に門戸が開かれているようだ。

対して、この「イブ」では、可愛い女の子など、どこにも登場しない。これは、ある科学者(男)の手記を纏う回想録。全編にわたり、どことなく暗く、重い空気が漂う。それは、文体が硬く、古めかしい。所どころ古風なカタカナ遣いをしているだけではないだろう。

さて、ファンタジスタドールにおいて、ドール達は素整体と呼ばれる状態であるが、中身は所謂データである。なぜデータである所の彼女らが、アニメの世界において実体化できたのかは、このイヴを呼んで理解を深めることができた。

が、このイヴの魅力はそれだけではない。だいたい、「それは、乳房であった。」という、冒頭の破壊力もおかしすぎる(褒め言葉)。そして、登場人物たる科学者達は、極めて真面目を装っているが、言動なり行為は、変態紳士そのものである。幼少の頃の逸話、そして作中の現在に至るまで、「力」と呼ばれる存在は、女性の体そのものを渇望する、厳選的なおぞましい欲望。それを描いた作品なのだと。

正直に告白すると、私は「変態だー!」と心の中で叫びながら、面白おかしく本作品を読むことができた。太子なる主人公の、一直線なほどの情熱には、正直羨望すら覚える。うらやましい。

アニメのファンタジスタドールで垣間見えた、明るい世界観。その後ろには、こんなにも重く暗い事情なり、思いがあったのだ。本作を終えて、よりアニメ版を見直したくなった、そんな作品だった。


読み終えて、改めて全体をパラパラ見通す。

しかし、所見で気持ち悪い、と思ったのは、何故だろう。

変態紳士な登場人物に対してではなく、きっと、文章を通して自己投影された、自らに対する嫌悪感だったのではないだろうか。私自身の愚かさを見透かされたかのような表現には、何とも言えない心境にさせられた。このような切っ掛けを与えてくれた作品には、素直に感謝したい。

本作品は、割と読み手を選ぶ作品である。変態紳士の手記なんて、誰が読みたいだろうか。いや、私は読みたかったのだが。きっと、ファンタジスタドールの世界の裏側を知りたい諸氏にとっては、満足にたる作品であろうと思うし、本当にこういう人物も世の中にいるかもしれない、そう思わせる文章と内容に、満足した。

 

 

齢重ねて。

誕生日。齢を重ねる日。

正直、あまり実感が湧かない。

いつのまにか、誕生日に対しては、然程、執着を持たなくなったように思う。

なぜだろう。自分でも理由はわからない。

ある種の節目であることは理解しているが、

時間というのは、砂時計に流れる砂のように、

淀みなく流れ、戻るべきものでもない。

 

あ、でも、砂時計なら、ひっくり返すタイミングが必要か。

そういう機会が、誕生日なのかな。

 

あとは、ありきたりだけれど、

多くの人に助けられて、今日の自分なり、今があるということを

忘れずに生きていきます。皆さん本当にありがとうございます。

 

足踏みばかりの毎日ですが、

そろそろ前に進んでいきたいと思っています。

サウンドトラックに魅了された男。

なんというか、サウンドトラックは料理でいうところ、味醂のような存在。
私はサウンドトラック(サントラ)が好きだ。

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サウンドトラックとは、元々は映画フィルムにおける音声専用のトラックに由来するが、今日日、映像表現に対する伴奏音楽的な意味あいを持つ。曲集は、CDに収録・販売されているほか、最近ではネット上でも取り扱いが増えつつある。

そんなサントラを、私が始めて買ったのは天空の城ラピュタだった。確か、中学校1年生の頃だったように思う。たまたま暇つぶしに入ったレコード屋で、アニメのサントラコーナーを発見し、たまたま知っていたラピュタが気になり、購入したのが始まり。それからかれこれCDを買い続け、今では200枚を越える程度には買い集めている。

何故サントラが好きなのか? それは、自分にとっては、音楽を通して、作品を観たときの感情が思い起こされるからだ。

サントラは聴くときは、静かな環境で、ヘッドホン(安物)を頭にかけ、かるく目を閉じ、深呼吸。そして、再生ボタンを押す。脳裏に拡がる黒い空間は、音楽によって、時には煌びやかな世界や、時に、郷愁と黄昏の世界へと誘ってくれる。

作品が目の前に思い浮かべられるだけでなく、その時の気持ちも鮮やかに甦る。ラピュタであれば、幼少の頃にワクワクした冒険心が、今も思い起こされる。

CDジャケットに同梱される作品解説も魅力だ。最近では少なくなってきたが、サントラに含まれる1曲1曲に対する、作曲者やスタッフの方のコメント。単純に音楽としての解説のみならず、劇中シーンの背景や心情について述べられることがあり、作品をより深く味わうためのスパイスにもなる。

だから、サントラは好き。興味を惹かれる作品と出会えるなら、これからも購入しようと思っている。

ところで、昨今、Blu-ray 作品にサントラが同梱される例があるが、非常に残念に思う。せっかく気になる作品あったとしても、Blu-rayシリーズを揃えるためには、それなりの出費が必要だ。それに、作曲家さんのシリーズを追いたい時があっても、後で入手困難になる事も有り得ると思うから。

そういう意味では、先月、ある魔法少女モノのサントラが、全曲集的な役割でリリースされたのは評価されるべきだと思う。一人のファンとしては、単体でのCD販売継続を強く希望するものの、そこは、レーベルの収益や販売戦略もあるだろう。もし、CDのプレス製造コストがあわないとしても、今はネットという流通経路もあるのだし。サントラというジャンルの存続を、今後も強く望むものである。

サントラは決して"おまけ"のような位置付けではない。

固定リンクは無慈悲に笑う。――私は、国語が嫌いだった。

私の小学生時代、国語が苦手だった。特に、"作者の心情を述べよ"といった、行間なり背景を推測させるような出題が苦手、というより嫌いだった。足りない頭で必死に考えたつもりでも、テストの答え合わせでは、無慈悲に思考が否定される。

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こんな事を思い出したのは、固定リンクが限界を迎えているという主張が展開された、昨秋の頃。

私も主張には概ね賛成。自分でも、固定リンクは「必要無いかもね」と思うシーンが増えてきたからだ。

 

理由は単純。SNSを通したコミュニケーションに、URLは必要が無いから。ただただ、それだけ。

重要なのは、コンテンツを誰と共有するかや、LIKEやfavボタンを押すという行為のみ。主体となるのは、オンラインという名前の空間でもあり場であり、そこに集う人達なのだ。URLはネタというか、現実世界でいうところの住所という程度の意味しかない。

だから、固定リンクは要らないよね、そう思っていた時期が、私にもあった。

しかし、実際には違った。固定リンクは必要だ。

こう思い直したのは、私がとある記事を読んだ時。初見では、その筆者の事が嫌いになった。論理的には正しいなと思いつつ、その文面から嫌悪感なり差別意識を感じたからだ。なんて酷い主張をする筆者であろうと。

普段なら、そのままブラウザをソッと閉じるところ、たまたま気になり、他の記事にも目を通す。するとどうであろう。件の記事は、その筆者の主張に対するアンチテーゼの文脈を持っていたのだった。

私は、前後の文脈を知らず、ただ、単純に与えられたURLの記事に対してのみ噛みついてしまっていた。記事を咀嚼もせず、目の前に出された餌に対して、私は、パブロフの犬よろしく、条件反射しかしていなかったのである。

「これは、やられた!」と私は思った。気がつかないうちに、私自身ネットで、刹那的な時間を過ごしていたのだと気がつかされたのだ。理性を押し殺し、感情だけで情報を処理するだけならば、確かにURLは不要だろう。だが、そうではない。

当時の私は、視野が狭かった、考えが浅かったのだ。今ならハッキリ自覚できる。だから、私は国語も嫌いだったのだろう。

いい年をして、ようやく気がついたというか、正直恥ずかしい。

いや、まだ気づく事が出来て、良かったと言えるのだろうか。

はてなブログをはじめてみました。

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みなさん、はじめまして。

みなさん、こんにちは。

2014年になりました。新しい年には、新しい事をはじめよう!などと思い立ち、はてなブログをはじめてみました。

いつものブログは割と技術寄りの投稿が中心。ですが、こちらは普段自分が考えている事や感じている事を、淡々と書いていく場にしようと思っています。

 

なぜ急に書こうと思ったのか。それは、これまで自分自身の事を、オンライン上では形にしてこなかったなぁ、このままで良いのかなぁ、という思いがあるから。twitterfacebook に思いを綴ることがあったとしても、時と共に流れ去っているのが実際のところ。ちょっと寂しいなって。

たぶん、独り言だったり、いわゆるチラシの裏的な書き込みが中心になるのかな。とりあえず始めてみたので、あまりよく考えていません。

 

ただ、日々、自分が考えている事や、思っている事を形にして、ゆるゆる書いていこうと思っています。読んだ本とか、趣味の事も書いてみようかな。そして、そんな自分の思いなり思考の過程が、色々な人と共有できたら、それはとっても嬉しいなって。

 

などという事を考えながら、郷里の自室にて書いています。外は、冬真っ只中、鉛色の空、冷たい風が吹く、そんな場所から。とりあえず、初投稿。まずは第一歩。